東京地方裁判所 昭和55年(ワ)11359号 判決 1985年6月25日
原告
清水洋
清水恭子
右両名訴訟代理人
福田拓
戸谷豊
被告
大塚文輝
被告
社団法人東京都教職員互助会
右代表者理事
平山秀規
右両名訴訟代理人
高田利広
小海正勝
主文
一 原告らの各請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告ら
1 被告らは連帯して原告清水洋に対し金一九三九万八五〇〇円、同清水恭子に対し金一九三九万八五〇〇円及び右各金員に対する昭和五五年一〇月三〇日から支払いずみまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決及び仮執行宣言
二 被告ら
主文と同旨の判決
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 原告清水洋(以下「原告洋」という。)は亡清水八州(以下「八州」という。)の父であり、同清水恭子(以下「原告恭子」という。)は同人の母である。
2 八州は、昭和三八年六月四日生まれの健康な男子であつたところ、昭和五五年三月四日午前〇時三〇分すぎ、「心臓が苦しい」「手足が動かない」と痛みを訴え、顔色は蒼白となり、直ちに被告大塚文輝(以下「被告大塚」という。)の経営する東京大塚病院に入院した。
3 同病院入院後、八州はなお胸部圧迫、四肢硬直を訴え嘔吐、下痢を繰り返したが、尿は同月五日午後二時三〇分ころまで出なかつた。同病院の高橋三郎医師(以下「高橋医師」という。)ら担当医は、八州の症状につき肝臓障害によるものと誤診し、右のような長時間尿が出ないか、もしくは非常に乏尿であるという異常な事態を看過した。その後同月四日午後五時、右高橋医師は、八州がレントゲン撮影に耐えうる状態であると誤診し、これが不要であるにもかかわらずレントゲン撮影をしようとしたため、同人は脳貧血を起こして嘔吐し、直ちに酸素吸入及び点滴を必要とする状態に陥つた。
このようにして適切な措置がなされないまま時間が経過したが、同月五日午前一〇時ころ、八州の視線が定まらないようになると、高橋医師らはあわてて原告らに他の病院を捜すように指示したが、自らは転院について何ら努力せず、原告らがようやく被告社団法人東京都教職員互助会(以下「被告互助会」という。)の経営する三楽病院に依頼した。ところが同病院との電話連絡の中で、高橋医師が、八州は肝臓障害の疑いである旨述べたため同病院は東京女子医科大学病院への転院をすすめ、今度は右東京女子医科大学病院との電話連絡の中で、高橋医師が八州につき肝臓障害との診断を前提にして血液検査の数値を報告したため、同病院は緊急の転医は必要ないものと判断した。これを受けて同医師は、原告らに対し「今は心配ない。明日外来で三楽病院に行くように」と指示するに至つた。
このようにして貴重な時間を費し、八州は同日午後二時三〇分ころ暗かつ色の血尿を排出するに至つたが、同医師は転院につき具体的指示をしなかつたため、原告洋がその血尿を三楽病院に持参し、その結果ようやく同日午後五時ころ、八州を同病院に転院させた。
4 右転院当初の担当は矢島章子医師(以下「矢島医師」という。)であり、その後磯久一郎医師(以下「磯久医師」という。)が担当医となつた。八州は溶血性貧血と診断されたが、その症状は改善されず血尿は頻繁に続き、また同月六日には心不全肺炎を併発したと診断された。同日午前一一時ころ、磯久医師らは急性腎不全と診断して腹膜灌流装置を挿入したが、結局灌流は実施しなかつた。そして八州は、同月七日午前一〇時ころ肺に出血して意識を消失し、同日午前一〇時二〇分ころ死亡した。
解剖の結果両腎皮質、髄質の壊死がみられ、溶血性尿毒症性症候群(以下「HUS」という。)と判断されたが、肝臓には特に異常は認められなかつた。
5 八州の死亡は、東京大塚病院の医師らの以下の(一)ないし(三)の各過失によるものである。
(一) 高橋医師ら東京大塚病院の担当医(以下「高橋医師ら」という。)は、前記3記載のような八州の重篤な症状を現認し、とりわけ、同人が多量の点滴を受けているにもかかわらず前記のように長時間無尿もしくは非常に乏尿であつたのであるから、慎重に各種検査を実施し、またそれができないときはその原因を究明し、適切な診断とそれによる治療行為を行うべき注意義務があつたのにこれを怠り、右無尿ないし乏尿の状態を看過して、同人の症状を肝臓障害によるものとの誤診を続けたまま時間を徒過して、適切な治療行為を怠つた。
(二) 高橋医師は、八州がレントゲン撮影に耐えうる状態になく、またレントゲン撮影は不要であつたにもかかわらず、医師として適切な判断、措置をなすべき注意義務を怠り、同人がレントゲン撮影に耐えうる状態にあると誤診して前記3記載のとおりレントゲン撮影を実施しようとし、よつて同記載のとおり同人の状態を悪化させた。
(三) 高橋医師が、前記3記載のとおり東京女子医科大学病院に八州の肝臓障害を前提として血液検査の数値を報告したところ、同人が同記載のとおり重篤な症状を呈しているにもかかわらず翌日の外来の診察で十分であると同病院の医師に判断されたのであるから、高橋医師としては右の肝臓障害との診断に疑問を持ち、他の病名を考えて、適切な措置を講ずるべき注意義務があつたのにこれを怠り、漫然と時間を徒過した。
6 また、八州の死亡は、三楽病院の医師らの以下の(一)ないし(三)の各過失にもよるものである。
(一) 矢島医師、磯久医師ら同病院の担当医(以下「矢島医師ら」という。)は、八州が東京大塚病院において殆んど尿が出なかつたこと、視線が定まらなかつたこと及び赤黒色の尿を排出したことを知り、また原告洋から直ちに転医の要請があり、そして同原告の持参した右赤黒色の尿を現認したのであるから、転院当日において、高橋医師による肝臓障害を前提とした数値の報告のみによらず、八州の東京大塚病院における症状の経過を精査し、血尿等の慎重な検査により転院当日より腎臓障害及び尿毒症を疑い、これに対する人工透析療法等適切な措置を講ずるべき注意義務があつたのにこれを怠り、安易に単なる一過性の寒冷色素尿症とのみ診断し、一週間か一〇日で退院できると判断した。そして、転院当日である同月五日は、東京大塚病院から持参した点滴等がなくなると、それ以上の措置をとらなかつた。
(二) また、同月五日の検査の際、八州の血液尿素窒素(以下「BUN」という。)はすでに三六ミリグラム毎デシリットルであつて、正常値である六ないし一〇ミリグラム毎デシリットルを超えており、同月六日朝は四一ミリグラム毎デシリットル、同午後は五一ミリグラム毎デシリットルと漸増しており、寒冷色素尿症とは異なる腎障害を示し続けていたのであるから、矢島医師らは八州の三楽病院入院中において、同人の腎臓障害を疑い、それに従つた適切な治療行為をすなべき注意義務があつたのにこれを怠り、右検査結果を看過して、適切な治療をしなかつた。
(三) また、同病院の磯久医師は生化学検査においてクレアチニンが異常値を示した場合には直ちに人工透析(腹膜灌流)を実施すべき注意義務があつたのにこれを怠り、腹膜灌流の実施の必要性を認識して前記4記載のとおり八州の腹部に腹膜灌流装置を挿入したにもかかわらず、血液の生化学検査の際クレアチニンの検査を指示するのを忘れたため、それが異常値であつたにもかかわらずこれを認識することができず、腹膜灌流の機会を失して同記載のとおりこれを実施しなかつた。
7 被告大塚は東京大塚病院を経営し、高橋医師ら同病院の医師を使用する者であり、被告互助会は三楽病院を経営し、矢島医師及び磯久医師ら同病院の医師を使用する者である。
8 八州の死亡により生じた損害は以下のとおりである。
(一) 八州の逸失利益 二五二七万七〇〇〇円(相続)
(二) 慰謝料 それぞれ金五〇〇万円
(三) 弁護士費用 それぞれ金一七六万円
9 よつて、原告らはそれぞれ、被告らに対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、金一九三九万八五〇〇円及びこれに対する各弁済期経過後である昭和五五年一〇月三〇日(訴状送達の翌日)から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による各遅延損害金を、いずれも連帯して支払うことを求める。<以下、省略>
理由
一八州の症状経過等
<証拠>を総合すれば、以下の1ないし3の各事実が認められる。
1 八州は、昭和三八年六月四日生まれの男子であつたが、昭和五五年三月四日午前〇時三〇分すぎ、胸部痛、心臓圧迫感及び手足の硬直を訴え、同日午前一時二〇分ころ被告大塚の経営する東京大塚病院に入院した。
2 同病院入院後、八州はなお胸部圧迫感、四肢硬直、悪心等を訴え、嘔吐、下痢を繰り返したが、尿回数は右入院時より同日午前七時までは〇回、同時刻より同月五日午前七時までは二回であつて、同日午後二時三〇分ころまで乏尿の傾向にあつた。入院時に同人を診察したのは当直の大橋常安医師であつたが、同月四日朝から高橋医師の担当となつた。同医師は同日午後五時、八州に対し胸部レントゲン撮影を実施しようとしたところ、同人は撮影中に脳貧血を起こして嘔吐したが、点滴及び酸素吸入により軽快した。また同医師は、諸検査を実施した後、同月五日朝、八州の肝臓には当時何ら障害がなかつたにもかかわらず「激症肝炎」と誤診し、これに基づく加療を施した。
その後同日午後二時三〇分ころ、同人は黒褐色の血色素尿を排出したが、これを血尿と認識した同医師は、腎臓障害を併発したものと診断した。
これに先立ち、同日午前八時三〇分ころ、同月四日夜実施した生化学検査の結果、LDH、GOT及びGPTが異常な高値を示し、また同月五日朝実施した血液検査の結果、白血球数の異常な増加が認められたので、高橋医師は、前記診断にかかる肝臓障害が重症化していると考え、転院の必要性があると判断し、同医師や原告洋らにより関東中央病院、東京女子医科大学病院、三楽病院等と交渉を続けていたが、同日午後五時ころ、八州は被告互助会の経営する三楽病院に転院した(なお、原告と被告大塚との間では、八州が同月五日午後二時三〇分ころ暗赤色の血尿を排出したことも争いがないが、<証拠>により、八州が排出したのは血尿ではなく血色素尿であつたと認めるのが相当である。)。
3 三楽病院転院当初八州を診察した矢島医師は、肝臓疾患を否定し、溶血性貧血と診断したが、その具体的疾患名については、発作性寒冷色素尿症を最も疑うも、なお確診しえなかつた。その直後から八州の担当医となつた磯久医師も、発作性溶血性貧血と診断し、その中では発作性寒冷色素尿症を疑つたが、種々の検査を行うも、その具体的疾患名を明らかにすることはできなかつた。
同月六日、八州は心不全を併発したが、ジギタリスの投与により軽快した。また、同日ころ、八州が乏尿状態となつたため、同医師は、急性腎不全へ進行した場合を慮り人工透析(腹膜灌流)の準備をしたが、利尿剤と強心剤の投与により排尿状況がよくなつたため、腎機能は順調と判断し、結局腹膜灌流は実施しなかつた。
しかし、八州は、同月七日午前九時ころから体動が激しくなり、胸部痛を訴え、午前一〇時ころには喀血が始まるとともに意識を喪失して、同二〇分ころ死亡した。
二八州の死因
1 <証拠>を総合すれば、八州の直接の死因は肺出血であつたと認められ<る。>
2(一) <証拠>に鑑定の結果を総合すれば、HUSは、溶血性貧血の一種であつて、通常一歳前後の幼児にみられる疾患であり、臨床的には、まず前駆症状として主に上気道症状や消化器症状がみられ、その数日ないし二週間くらい後に細血管障害性溶血性貧血、急性腎不全、尿毒症、下痢、発熱、出血、心不全等の多彩な急性症状を呈するのが通常であること、病理所見としては、末梢血液塗沫標本上破砕赤血球の存在が常にみられ、また血小板数の減少、細小血管のフィブリン血栓、腎の糸球体内のフィブリン様物質の存在、腎皮質壊死等もみられること、そしてその予後はやや悪く四〇パーセント程度の死亡率を持つことがそれぞれ認められる。
(二) 本件における八州の症状等についてみるに、まず、同人が血色素尿を排出したことは前記一2において認定したとおりであり、また<証拠>によれば、同月六日の血液検査に至つて初めてではあるが末梢血液塗沫標本上破砕赤血球(いが状奇形赤血球)がみられたこと、同月五日の生化学検査において間接ビリルビンは三・七ミリグラム毎デシリットル(正常値は〇・一ないし〇・六ミリグラム毎デシリットル)と異常な高値であつたこと、及び同月五日、六日及び七日の各血液検査において網状赤血球がそれぞれ三〇〇パーミル、八三四パーミル、六四五パーミルと著増したことがそれぞれ認められ、これらの事実と、<証拠>を総合すれば、八州には三楽病院入院当時溶血性貧血の症状が存在したものと認められ<る。>
また、同人に下痢及び乏尿状態があつたことは前記一2において認定したとおりであり、<証拠>によれば、血小板数は同月五日、六日及び七日の各血液検査においてそれぞれ一五万三〇〇〇、一七万九〇〇〇、二三万八〇〇〇と増加しているが、同人に発熱があつたこと、及び組織学的所見として、剖検により、腎糸球体ループ内、肺血管内、臓の細小血管内等のフィブリン血栓、及び両腎皮質の組織壊死がみられたことが認められる。
更に、本件発症の初期である同月四日ころ、八州が胸部圧迫感及び悪心を訴えていたことは前記一2で認定したとおりであり、また、<証拠>によれば、そのころ同人に咳嗽があつたことが認められ、これらの諸事情に前記丙第五号証を参酌総合すれば、同人は発症の初期の段階において、上気道症状を呈していたものと考えられる。
(三) 右の(一)及び(二)において認定したことに、<証拠>を総合すると、前記1で認定した八州の直接死因である肺出血の原因となつた疾患は、前記認定のとおり同人が発症時一六歳と比較的高齢であつたこと、血小板数が増加していること及び赤血球破砕の進行が緩慢である等の点で典型性を欠くが、極めて急激に進行したHUSであり、また両腎皮質壊死等にみられた腎臓障害や心不全は、そのあらわれとしての一症状であつたと認められ<る。>
三東京大塚病院の医師らの過失の有無等
1 高橋医師らの、八州につき慎重に各種検査を実施し、またそれができないときはその原因を究明し、適切な診断とそれによる治療行為を行うべき注意義務を怠つた過失(請求原因5(一))、及び同医師の、東京女子医科大学病院へ八州の血液検査の数値を報告した時点において肝臓障害との診断に疑問を持つて他の病名を考え、適切な措置を講ずべき注意義務を怠つた過失(同(三))の有無について判断する。
(一) 八州の東京大塚病院における症状、同人が同病院入院時から同月五日午後二時三〇分ころまで乏尿傾向にあつたこと及び高橋医師が八州の症状について激症肝炎と診断したがこれが誤診であつたこと(但し、同医師も右時刻ころには腎臓障害の診断をしている。)は前記一2において認定したとおりである。
そして、<証拠>によれば、八州は東京大塚病院入院中三五〇〇ミリリットルの点滴を受けたことが認められ、また<証拠>によれば、同月五日の東京女子医科大学病院との電話での転院交渉において、高橋医師が八州の肝臓障害を前提にして検査結果の数値を述べたところ、同病院から、その程度なら翌日の外来診療でよいと言われたことが認められ<る。>
(二)(1) そこで、まず、肝臓障害との診断に疑問を持つて他の病名を考えるべき注意義務を怠つた過失の有無につき検討するに、原告は、高橋医師らが診断すべき疾患名を具体的に主張していないが、前記二のとおり同人の死因となつた疾患はHUSであるから、まず、高橋医師らにおいて八州についてHUSと診断すべき注意義務を怠つた過失があつたか否かについて判断することとする。
(2) HUSにおいては、通常、細小血管性溶血性貧血、尿毒症、腎不全、心不全等の症状を呈するものであることは前記二2(一)において認定したとおりである。
しかし、まず、<証拠>によれば、同月四日朝実施した血液検査の結果は血色素量が一五・五グラム毎デシリットル、赤血球数が五一〇万、色素指数が〇・九五、ヘマトクリット値が四九パーセントでいずれも正常であり、少くとも検査上は貧血を示す所見がみられなかつたこと、八州に出血傾向がなかつたこと、及び同日夜実施した生化学検査によれば間接ビリルビンは〇・四ミリグラム毎デシリットルで正常であつたことがそれぞれ認められ、これらの各点と鑑定の結果を総合すれば、東京大塚病院入院時において、同人には溶血性貧血であることを示す主要な所見が存しなかつたことが認められ<る。>
(3) また、鑑定の結果によれば、尿毒症とは、非代償性の腎不全の末期に生ずる状態であつて、腎から尿中に排泄されるべき物質が腎機能の低下によつて体内に蓄積するものであり、その特徴的な検査所見としては、尿量の低下、蛋白尿、BUNの増加、クレアチニンの増加、カリウムの増加がみられ、また臨床所見としては、貧血、視力障害、四肢の知覚異常、けいれん、意識障害、昏睡、便秘、下痢、心不全、心包炎、高血圧、出血性素因などがしばしばみられることが認められる。
しかし、貧血を示す検査所見が八州の同病院入院中みられなかつたことは前記(2)に認定したとおりであるし、<証拠>によれば、同月四日夜実施した生化学検査の結果、BUNは一七ミリグラム毎デシリットルと正常であつたことが認められる。そして、前記認定の尿毒症の所見に照らしつつ右の各点に鑑定の結果を総合すれば、前記当時八州には尿毒症であることを示す主要な所見はみられなかつたことが認められ<る。>
もつとも、八州が東京大塚病院入院時から同月五日午後二時三〇分ころまでの間乏尿傾向にあつたことは前記のとおりであるが、右乏尿は脱水による可能性が高いことは後記(4)のとおりであるから、右乏尿の事実をもつて前記認定を覆すことはできない。
(4) 次に、<証拠>によれば、腎不全とは、何らかの障害により腎機能の低下をきたす疾患であり、その症状としては、まず乏尿がみられ、続いて前記(3)に認定した尿毒症の各検査所見及び臨床所見が発現することが認められる。そして前記二2(二)において認定した同人の両腎皮質壊死等の事実からすれば、同人が、少くとも死亡直前において、何らかの腎臓障害に罹患していたものと認めることができる。
しかし、同人の東京大塚病院入院当時、貧血を示す検査所見及びBUNの異常がみられなかつたことは前記(2)及び(3)で認定したとおりであるし、また<証拠>によれば、同月五日に実施した尿検査の結果では尿沈渣に著しい異常がなかつたことが認められ、これらの各事情と鑑定の結果を総合すれば、東京大塚病院入院中において、八州には、腎不全であることを示す主要な所見がみられなかつたことが認められ<る。>
もつとも、同人が同病院入院中一時的に乏尿傾向にあつたことは前記(一)のとおりである。しかし、<証拠>によれば、乏尿の原因としては、腎不全の他に脱水やショック等も考えられ、その鑑別には尿比重、尿浸透圧、尿中ナトリウム排泄量、尿中、血中各クレアチニン及び各尿素濃度の比率、尿沈渣所見等が参考になるが、その鑑別は困難な場合が少なくないことが認められる。そして、当時八州には下痢及び嘔吐の症状があつたことは前記一において認定したとおりであるし、<証拠>によれば、同月四日に実施した血液検査では赤血球数が正常範囲内ではあるが増加していることが認められる。また、八州が東京大塚病院入院中合計三五〇〇ミリリットルの点滴を受けたことは前記(一)で認定したとおりであるけれども、前記乏尿傾向は前記のとおり同病院入院当初から存在しているのであつて、その当時における水分補給量はさほどではなかつたと考えられる。以上の各点に、<証拠>を総合すれば、八州には当時脱水があり、前記乏尿はこれにより生じていた可能性も強いものと認められ<る。>そうすると、前記乏尿傾向の事実をもつて必ずしも腎不全を示す所見であるということはできない。
また、<証拠>によれば、同月五日に実施した尿検査の結果、蛋白尿がみられたことが認められ、また四肢硬直及び下痢があつたことは前記一に認定したとおりであるが、鑑定の結果に照らせば、これらの所見から必ずしも腎不全であるということはできない。
(5) 更に、<証拠>によれば、少くとも同日には八州に心不全の症状はなかつたものと認められ<る。>
(6) 以上を前提として、高橋医師らが八州につきHUSを考え、あるいは診断しなかつたことについての過失の有無について判断するに、まず、同人の死因となつたHUSが典型性を欠き、しかも急激に進行したものであることは前記二2において認定したとおりである。そして、このこと及び前記(2)ないし(5)で認定した諸事情に、鑑定の結果を総合すれば、八州の東京大塚病院入院中における症状は、前記2(一)で認定したHUSと診断するための主要な特徴的所見をいくつか欠いているのであつて、右の診断をすることは、当時の開業医の医療水準からすれば不可能であつたものと認められ、この認定を覆すに足りる証拠は存しない。そして、このことは、前記(一)のとおり東京女子医科大学病院から翌日の外来診療でよいと言われたことがあつても、同様というべきである。。
したがつて、高橋医師らにおいて八州についてHUSと診断すべき注意義務を怠つた過失があつたと認めることはできず、他に前記(1)記載の肝臓障害との診断に疑問を持つて他の病名を考えるべき注意義務を怠つた過失があつたと認めるに足りる証拠はない。
(三) 次に、請求原因5(一)及び(三)におけるその余の各過失の有無につき考えるに、まず、<証拠>によれば、高橋医師らは、八州の入院中、血液検査、尿検査、レントゲン撮影等同人の病名を明らかにするための各種検査を一通り実施していることが認められ、それらの各検査に格別欠ける所があつたとは認め難い。
そして、高橋医師らにつき肝臓障害以外の病名を考え、あるいは適切な診断をすべき注意義務を怠つた過失が認められないことは前記(二)のとおりである以上、特段の事情がない限り同医師らにおいて右診断を前提とした適切な治療ないし措置をしなかつたことについて過失を問うこともできないものというべきであり、右特段の事情については何らこれを認めるに足りる証拠はない。
(四) 以上を要するに、請求原因5(一)及び(三)の各過失はいずれもこれを認めることができない。
2 次に、高橋医師の、八州についてその病状の判断を誤り不必要なレントゲン撮影を行つた過失(請求原因5(二))の有無について判断するに、同医師が八州につきレントゲン撮影を実施しようとしたこと及び同人がその撮影中に脳貧血を起こして嘔吐したことは前記一2で認定したとおりであるけれども、右撮影行為と八州の死亡との間の因果関係については、これを認めるに足りる証拠がない。
3 また、高橋医師が八州につき激症肝炎と診断したことが誤診であつたことは前記のとおりであるが、このことについての過失の有無はともかく、このこと自体と同人の死亡との間の因果関係を認めるに足りる証拠はない。
以上の他本件全証拠によるも同医師らに八州の死亡と因果関係を有する過失の存在を認めるに足りる証拠はない。
四被告互助会の医師の過失の有無等
1 まず、矢島医師らの、八州の東京大塚病院における症状の経過を精査し、血尿等の慎重な検査により転院当日より腎臓障害及び尿毒症を疑い、これに対する人工透析療法等適切な措置を講じるべき注意義務を怠つた過失(請求原因6(一))、及び同医師らの、八州の三楽病院入院中において同人の腎臓障害を疑い、それに従つた適切な治療行為をすべき注意義務を怠つた過失(同(二))の有無等について判断する。
(一) <証拠>によれば、矢島医師が、八州が東京大塚病院において赤黒色の尿(血色素尿)を排出したこと及び視線が定まらなかつたことをそれぞれ知つたこと、並びに右赤黒色の尿を現認したこと、磯久医師が、八州が同病院において赤黒色の尿を排出したこと及び乏尿傾向にあつたことを知つたこと、そして、原告洋から直ちに転医の要請があつたことがそれぞれ認められ<る。>ただし、矢島医師が、八州の右乏尿傾向を知つたこと及び磯久医師が右赤黒色の尿を現認したことについては、これを認めるに足りる証拠はない。また、矢島医師が八州につき溶血性貧血と診断し、その中で発作性寒冷色素尿症を最も疑つたこと、磯久医師も発作性溶血性貧血と診断し、その中で発作性寒冷色素尿症を最も疑つたこと、しかし両医師ともそれ以上の具体的疾患名の確診はできず、HUS、腎不全及び尿毒症の診断はしなかつたことは前記一3において認定したとおりである。
そして、前記丙第三号証によれば、BUNは、同月五日は三六ミリグラム毎デシリットル、同月六日は四一及び五一ミリグラム毎デシリットルと増加していたことが認められ、また、八州が少くとも死亡直前において何らかの腎臓障害に罹患していたことは前記認定のとおりである。
(二) しかし、まず、人工透析療法を実施しても八州の死亡を回避することは不可能であつたことは、後記2(三)において説示するとおりである。
そして、同人の直接死因が肺出血であることは前記二1において認定したとおりであるところ、その具体的発症機序は鑑定の結果その他の証拠によるもなお明らかにすることはできない。したがつて、たとえ八州が三楽病院入院中にHUSの一症状としての腎臓障害ないし尿毒症に罹患しており、矢島医師らが右病名を診断してこれに対する何らかの治療を施したとしても、そのことによつて同人の死亡を回避しえたと認めることはできないのである。
そうすると、原告が請求原因6(一)及び(二)で主張するような注意義務違反を前提として被告らにその過失責任を問うことはできない。
2 次に、磯久医師の、腹膜灌流を実施すべき注意義務を怠つた過失(請求原因6(三))の有無等について判断する。
(一) 磯久医師が同月六日午後、八州につき腹膜灌流の準備をしたが、結局これを実施しなかつたこと及びその理由は、前記一3で認定したとおりである。
(二) ところで、<証拠>には、急性腎不全の透析開始時期について、無尿ないし乏尿がみられる場合、BUNが六〇ミリグラム毎デシリットル以上の場合及びクレアチニンが二・五ないし六・〇ミリグラム毎デシリットル以上のときと記載されているところ、前記丙第三号証によれば、BUNは同月七日で六九ミリグラム毎デシリットル、クレアチニンは同月六日で三・七ミリグラム毎デシリットルであつたことが認められる。
しかし、乙第六号証は、透析開始時期につき、BUNは一〇〇ミリグラム毎デシリットル、クレアチニンは一二ミリグラム毎デシリットルと、右の基準よりも高い数値を基準としているのであつて、このこと等に照らせば、右のとおり丙第三号証記載のBUN及びクレアチニンの数値が甲第三号証記載の基準値を超えていることのみをもつて、磯久医師が検査成績上腹膜灌流の時期を失したと直ちに断ずることはできず、他に磯久医師が右時期を失したと認めるに足りる証拠は存しない。
(三) のみならず、八州の真接死因が肺出血であることは前記二1で認定したとおりであるところ、鑑定の結果によれば、腹膜灌流その他の人工透析療法は、BUNや電解質バランスの補正には効果を期待できるものの、そのことによつて右肺出血を防止し、八州の死亡を回避することは不可能であつたと認めることができる。
(四) したがつて、いずれにせよ磯久医師が腹膜灌流を実施しなかつたことを理由として、請求原因6(三)記載の過失責任を問おうとする原告の主張は理由がないといわなければならない。
3(一) 続いて矢島医師らのその他の過失の有無について検討するに、矢島医師らが、八州の入院当日である同月五日の時点において、HUSと診断しなかつたことの適否について判断する。
八州の死因が、典型性を欠きしかも極めて急激に進行したHUSであつたこと、及びHUSの特徴的所見は前記二2で認定したとおりであるところ、前記丙第三、第五号証及び鑑定の結果によれば、右の時点において、末梢血液塗沫標本上破砕赤血球は特にみられなかつたこと、及び血小板数は一五万三〇〇〇であつてほぼ正常であつたことがそれぞれ認められる。
そして、右の各点に<証拠>を総合して考察すれば、矢島医師らが八州の入院時において溶血性貧血と診断したことは前記のとおりであるけれども、その一種であるHUSにおける溶血(赤血球の崩壊)は、フィブリン血栓を中心とした細小血管の内腔病変により赤血球が機械的に破壊されて生ずるものと一般に考えられており、このことを示す末梢血液塗沫標本上の破砕赤血球がみられず、またその他の主要な所見にも欠けるものがあつたのであるから、前記時点において、八州につきHUSと診断することは、当時の開業医の医療水準に照らすと不可能であつたものと認められ<る。>
もつとも、同人が東京大塚病院入院中一時乏尿傾向にあり、磯久医師がその事実を知つていたことは前記1(一)において認定したとおりであるが、このことが尿毒症ないし腎不全を示す所見とはいえないことは前記三1(二)(3)及び(4)で説示したとおりであるし、ましてやHUSと診断することが可能であつたとは認め難い。
そのほか、前記1(一)において認定したその余の事実も、八州につきHUSと診断することが可能であつたとは認めるに足りるものではない。
したがつて、矢島医師らが同月五日の時点において八州につきHUSと診断しなかつたことについて過失があつたと認めることはできない。
(二) 次に、同月六日以降の時点において、矢島医師らが同人につきHUSと診断しなかつたことについての過失の有無につき考えるに、前記丙第三号証によれば、同月六日に実施した血液検査の結果、末梢血液塗沫標本上bull cell(いが状奇形赤血球)がみられたこと、FDP(フィブリン分解産物)は四〇マイクログラム毎デシリットルと異常値(高値)を示していたことがそれぞれ認められ、右の事実と鑑定の結果を総合すれば、同日の時点においては、高度の専門家であればHUSを疑うことができたものと一応認められるものの、当時の開業医の医療水準に照らせば、右の時点においてHUSと診断することが可能であつたと認めるに足りる証拠は存しない。のみならず、<証拠>を総合すれば、HUSの治療法には未だ確立したものがないこと、HUSの予後に最も関連があるのは腎不全であつて、八州のように肺出血を直接死因として死亡するのは経過として異常であること、及び右肺出血がHUSによるとはいえるものの、その具体的発症機序は明らかでないことが認められ<る。>そうすると、右の時点において八州についてHUSを診断したとしても、そのことにより同人の死亡を回避することが可能であつたと認めることはできない。
そうすると、矢島医師らにおいて、同月六日以降の時点でHUSと診断しなかつたことについて、八州の死亡と因果関係のある過失があつたと認めることもできないといわなければならない。
(三) その他、本件全証拠によつても、同医師らに八州の死亡と因果関係を有する過失の存在を認めることはできない。
五結論
以上のとおりであるから、本訴各請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないものとしていずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小川英明 裁判官原 啓一郎 裁判官松津節子は差支えにつき署名押印できない。裁判長裁判官小川英明)